いわずもがなの記 —トライアルによせて—

 

伊藤 み弥

 

 舞台で見る野々下孝はいつも眉間に皺を寄せて険しい顔をし、遠いまなざしをしている。なぜだろう。

 

 それはさておき、先日、バットシェバ舞踊団の公演を観る機会があった。舞台中ほどの高さの白い壁があり、その上からダンサーが次々と跳んでゆく場面があった。彼らは壁の向こう側に跳ぶので、落下してゆく様は壁に遮られて見えないのだが、むしろその壁があるために跳んだ瞬間の姿が目に焼き付く。彼らは、落ちてはまた上り、そしてまた跳ぶことを繰り返す。あとからあとから切れ目なくその跳躍は続く。彼らは向こう向きなので、その顔は見えないのだが、不思議と見飽きない場面であった。或る者は木が倒れるように、或る者は誰かと手をつないで、或る者はねじれながら、或る者は回って。単純な行動の繰り返しに見えて、色とりどりの跳躍が現れては消えてゆく。跳んでいったその先はわからない。

 それら跳躍のヴァリエーションを見るうちに私は、繰り返される跳躍のリズムに酔ったのだろう、(やや大げさではあるが)生きることへの寿ぎとでも言うようなものを感じ、泣きたいような、笑いたいような、名状しがたい心持ちになった。一方で、そう言えば、これに似た感覚が最近あったことを思い出し、やがて、それは仙台シアターラボのトライアルを観たときだと思い至った(ああ、やはり大げさだ)。

 

 さて、今回のトライアルは来年の本公演に向けた「試し」の場である。「日本人としての精神性」というやや大風呂敷なテーマをぶち上げ、そのテーマに沿って(いるはずの)一見脈絡のない断片が次々と展開される。それらはショートストーリーズ、ショートシーン、フリーエチュード、様式、ルパムと名付けられ、それぞれのルールに基づいて構成されている。

 役者たちはつぎつぎとその場に自分を放り込む。その小気味良いテンポとスピード感。それが高飛び込みを思わせたのだった。あるときは居酒屋の大学生、あるときは舞踏手、あるときは雪国の長老として、さまざまな人間が瞬時にたち現れては去っていく。脈絡に絡めとられていないからこそ見えてくるヴァラエティ豊かな人物たち。なるほど、人間考察の一つの手段として演劇という方法があることを思い出させてくれる。そして、それを役者たちが楽しみながらやっているさまが愛おしいとも思わせた。

 

 仙台シアターラボが得意とするコラージュ的手法の「構成演劇」には、演劇の主要な幹となる物語がない。しかし、物語と言う重力の軛から解放されているからこそ、自由に舞台を泳ぎ回れることもある。思えば、舞台はある面、水の中の世界に例えられなくもない。光の見え方も音の聞こえもちがって、日常や常識からほんのすこし解き放たれる。きらめく光の中、見たこともない光景が広がる。しかし、そこで生きるにはそれなりの鍛錬が不可欠だ。生半可な居方では溺れてしまうだろう。優れた潜水夫には強い身体と技術と精神がともなうものだ。

 そもそも役者の役割とは、観客の魂を代行し、全身全霊で遊ぶのが役割だと私は信じる。他人の人生の代行業者に「自分」は要らない。蔓延する「自分探し」はこの国の宿痾であるのだから、役者にはむしろそこから離れ、から笑う存在となってほしい。狭い人間関係の軋轢をぐちぐちと垂れ流して物語と称し、鍛錬しないへぼへぼの身体を舞台に上げ「これがぼくたちのリアリティ」などと抜かすのはもううんざりだ。役者たちよ、潔く鍛錬されるべし。

 (もちろん今回登場した役者たちはまだまだ途上なのである。そんな途上の自分たちを鍛える場を構えつづけようとするシアラボの意気に拍手を送る。)

 

 舞台で見る野々下孝はいつも眉間に皺を寄せて険しい顔をし、遠いまなざしをしている。なぜだろう。遥か遠い理想の地平線を見ているからか、現状に満足しないいらだちがそうさせるのか。

 信じるべきは「いま、ここ」に現前する役者体の他にない。そのことを旗印に掲げ、しなやかな身体としたたかな知性とを求めつつ、演劇の境界線を切り拓く、攻めの演劇を実践する仙台シアターラボにこれからも注目したい。