構成演劇をご存知ですか

名作戯曲を上演することや、現代の劇作家が、血のにじむような苦闘を経て生みだした戯曲を上演することは非常に意義があることです。

しかし、そこに演劇人としてではなく、俳優としてのみ関わりたいと望むことは不可能に近いと考えます。

映像の俳優は作品の一部ですが、演劇において俳優は11人が全体ともいえるからです。

そして、俳優にはセンスが必要です。全てを演出にゆだね、俳優は人形の様になどできないことは、現場に出ればすぐに分かります。

どんな戯曲を上演する場合でも、やはり自分のセンスは活かすべきですし、俳優の仕事を演出の仕事と区別することは非常に困難です。

そして日常のセンスを、戯曲に生かすセンスは、演劇教育のない日本において、持ち合わせている演劇人が少ないのも事実です。

文学性や言葉にだけにこだわるのは演劇を国語教育の視点からのみ把握する態度です。

演劇は、音楽も体育も国語も科学も道徳も入っていますが、やはり演劇としか把握できないものです。

そして、その演劇としか把握できないということを更に推し進めるべく、

個人や集団の体験した出来事や、喋る言葉をそのまま舞台に乗せる方法 、

それが構成演劇といえるでしょう。

構成演劇は下書きがないキャンパスに、部分的に直接色をのせていく作業に似ています。

まず、非常に短い演劇的な断片を俳優達が作るのです。その段階では、だれも芝居のゴールや、全体像というものを把握できていません。

ただ目の前にいる俳優が魅力的で、その表現が自分たちの感覚にビビットであるかどうかのみを指針として、ひたすらに部品を研磨し続けます。

そうして創作した部品が、あるところでテーマやコンセプトといったものを想起させ、やがて1つの芝居になるのです。

私はこの構成演劇を創作する現場を、人間の魅力を生かすための場ととらえています。

ストーリーや詩的な言葉、文学性や道徳観といったものよりも、目の前にいる俳優が魅力的かどうかだけを突き詰めるからです。

面白い芝居は、魅力的な俳優を見続けられる芝居だと私は考えます。

ストーリーに不可欠な説明台詞を、如何に魅力的に語れるかが、俳優の魅力なのでしょうか?

俳優が行うのは、純粋な生命燃焼活動のみです。

構成演劇には、演劇が演劇らしくいられるための原初的なエネルギーが溢れています。

動物エネルギーに満ちた俳優が、人間の魅力をまき散らしています。

 

是非、仙台シアターラボで構成演劇に取り組んでみませんか?